おっぱいとちくび

先輩の「ゲームはちくびに通じる」という名言にえらく感銘を受け、
ついうっかり女性も一緒の食事の席でちくびがいかにゲームに通じるか語りすぎてしまった。

帰り道、ふと、もうオレは三十路の直前で若くはなくなってきていることに気づき、インターンの子とか22とかの子にこんなに「ちくびちくび」言ってたら、セクハラで訴えられても反論のしようが無いということに気づいてしまった。

「あーやべ」


でも、今日ほど改めてちくびとおっぱいについて考えたことはなく、
「ちくびじゃなくて、おっぱいじゃダメなのか?」ときかれたら、「おっぱいじゃダメなんです!ちくびじゃなきゃダメなんです!」と声高に叫びたくなる気持ちはどこから湧き出てくるものなのか、必死に考えた。


で、答えがわかった。

”ちくびはおっぱいの必要十分条件である”が、”おっぱいはちくびの必要十分条件とはならない”のだ。

不思議である。必要十分条件であるならばその裏もまた真であるはずである。
数学で何度もそう習った。

だがしかし、「ちくびはおっぱいの必要十分条件である」という命題はこの公式を覆してしまうのだ。



わかりやすく説明しよう。

「ちくびのないおっぱい」と「おっぱいのないちくび」を想像して欲しい。


ちくびの無いおっぱいにはなにも興奮しないと思わないか?
が、しかし、たとえおっぱいがなかろうと、そこに凛と聳え立つ気丈なちくびさえがあれば僕達の欲望は満たされる。


そう、つまり僕たちの言う真のおっぱいはちくびなのだ。




ところで、なぜ、こんなにもちくびとおっぱいについて考えたかということを振り返ってみる。


「ゲームはちくびに通じる」とは


僕たちは生まれ出てちくびに出会った瞬間から、ちくびに夢中になりちくびが無いと落ち着かなくなり、ちくびに吸い付きたいとちくびを愛した。


そして、時がたち一度ちくびを離れると、「ちくび?はあ?えろーい」とちくびを敬遠しちくびと向き合うことをしなくなった。


しかし、さらに時がたち、いつの日か僕たちはまたちくびに興奮し、ちくびが大好きになっている。
そして、僕たちがちくびを愛するがゆえに、また新しい乳首を愛する命が生まれてくるのだ。


そう、これは僕たちとゲームとの付き合い方に似ている。

小学校に上がるかあがらないかの時、スーパーマリオにであい夢中になり、ドラクエをするために仮病を使おうとして母親に怒られ、学校でもゲームの話ばかり、みんながゲームに夢中になっていた。


しかし、やがて大きくなると、ゲームばかりやっているやつはオタクだ。引きこもりだとゲームと距離を置く。
ゲームばかりやってるやつとも距離を置く。


しかし、今ソーシャルゲームやDS、WiiPSPPS3Xboxネトゲといった人それぞれ関り方は違うもののみんな結局ゲームが大好きでみんなやっている。


そして、ゲームが好きな僕たちが作るゲームでまた、新たなゲーム好きが生まれてくれるといいなと思っているのである。

そう、そんな素敵な存在はちくびに他ならない。
おっぱいではないのだ。


もちろん僕はおっぱいが好きだ。
おっぱいより好きなものを、おっぱいに一切かすらないものからあげよという問題を出されたら、正直答える自信が無い。

というか、さっきから2時間以上考えているがそんなものはないといっていいくらいおっぱいが好きだ。

だが、しかしそんなおっぱいがすきなのも、ちくびがあってからこそであり、ちくびこそがおっぱいであり、ちくびあってのおっぱいなのだ。


ちくびを隠してもおっぱいだ。でもその先にちくびがあるからおっぱいなのだ。
ちくびを隠したおっぱいを恥ずかしがる人はなかなかいない。
しかしちくびを恥ずかしがる人は星の数ほどいる。


ちくびは特別なのだ。


だから、それに通じるゲームも特別ですばらしい。


ちくびとおっぱいとゲームに感謝